2012年01月12日

そして彼の魂は 恍惚に侵食されていく


永遠が 彼を呼んでいる

やがて 離陸を開始する彼の魂は

無限大の恍惚に 侵食されていく

これほど禁欲的な悦楽は

この世には ない

  

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2012年01月12日

死刑執行のとき 彼は激しく抵抗した・・・・・・・






    「裸の19歳」こと、永山則夫の「つづき」です。
    
    永山則夫は、
    1968年から1969年にかけて、
    連続ピストル射殺事件を引き起こした、
    「刑死者(元死刑囚)」。
    
    彼は、1969年の逮捕から、
    1997年の死刑執行までの間、
    獄中で、創作活動を続けた小説家でもあった。
    そして、1983年、
    小説「木橋(きはし)」で、
    第19回新日本文学賞を受賞している。
    
    
    獄中で、
    読み書きも困難な状態から独学で執筆活動を開始し、
    1971年に手記「無知の涙」「人民をわすれたカナリアたち」
    を発表した。
    
    この印税は4人の被害者遺族へ支払い、
    そのことが1881年の高等裁判所判決において、
    情状の一つとして考慮され、
    無期懲役という減刑につながった。
    ただし、のち差し戻し審で死刑判決。
    最高裁の上告棄却により、
    1990年4月17日に、死刑が確定している。
    
    永山則夫は、
    1980年に、
    かねてから文通していた在米日本人・和美さんと、
    獄中結婚。
    彼女は、フィリピンと日本のハーフである。
    
    そして1983年には、
    小説「木橋(きはし)」で、
    第19回新日本文学賞を受賞した。
    また、1990年には、
    秋山駿と加賀乙彦の推薦を受けて、
    日本文藝家協会に入会を申し込むが、
    協会の理事会にて、
    入会委員長の青山光二、佐伯彰一など理事の一部が、
    永山が殺人事件の刑事被告人であるため、
    入会させてはならないと反対した結果、
    入会が認められず、
    それに抗議した中上健次、筒井康隆、柄谷行人、井口時男が、
    日本文藝家協会から脱会した。
    
    なお理事長の三浦朱門とその妻曽野綾子は入会賛成で、
    江藤淳は反対の立場からテレビで中上健次と討論した。
    
    その一方、1996年、
    ドイツ・ザール州作家同盟には正式入会を果たしている。
    
    ここで入会に反対した奴らは、きっと、
    地獄に落ちたはずだ?
    そう思いませんか?
    
    
    獄中から手記や短歌を発表する死刑囚は多い。
    しかし、自らの罪を認める一方で、
    自己の行動を客観的にふりかえるという手法で創作を行い、
    文壇において一定の地位を獲得するまでに至った永山は、
    死刑囚としては珍しい存在だと言われている。
    
    また、連合赤軍の永田洋子死刑囚など、
    収監されていた多くの殺人犯に、
    影響を与えたともいわれている.
    
    
    永山則夫は、
    獄中からたくさんの手紙を書いている。
    内容は、獄中結婚した妻や支援者との交信や、
    本の読者からの悩み相談まで多岐に渡っている。
    そして永山は、
    返信する文面を写しを保存していたため、
    遺品の中には、
    受け取った手紙と返信した手紙が対になって保管され、
    そこから、国家に対する心情や、
    贖罪の意識の変遷などがうかがえる。
    
    
    1997年8月1日、
    東京拘置所において永山の死刑が執行された。
    48歳だった。
    生前、永山は知人に、
    「刑が執行される時には全力で抵抗する」と述べていた。
    実際に処刑の際、
    永山が激しく抵抗したとする数人の証言がある。
    このため、永山の死体は、
    死刑執行後、速やかに火葬されたと言われている。
    
    永山の死刑執行については、
    執行と同じ年の6月28日に逮捕された、
    神戸連続児童殺傷事件の犯人が、
    少年(当時14歳11ヶ月)であったことが、
    少なからず影響したとの見方も根強い。
    つまり、
    少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発、
    厳罰化を求める声が高まる中、
    未成年で犯罪を起こし死刑囚となった永山を処刑することで、
    世論の反発を和らげようとしたのではないか、
    という報道もあった。
    
    永山の告別式は東京都文京区の林泉寺で行われ、
    喪主は、
    東京高等裁判所における差戻審、差戻後上告審で、
    弁護人を担当した遠藤誠弁護士が務めた。
    永山の遺言により、
    遺灰は故郷の海であるオホーツク海に、
    妻だった和美の手によって散布された。
    ただし、差戻し決定時に離婚が成立していた。
    
    死後、弁護人たちにより、
    「永山子ども基金」が創設された。
    これは著作の印税を、
    国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの、
    永山の遺言によるもので、
    貧しさから犯罪を起こすことのないように・・・
    との願いが込められている。
    
    
   
  

Posted by kimpitt at 12:42Comments(1)