2012年01月10日

連続射殺事件を描いた 「裸の19歳」




 
    泥くささがイノチの映画監督といえば、
    今村昌平もいるけれど、
    新藤兼人も、負けず劣らず泥くさい。
    
    しかし、新藤兼人わヒトコトで表現するなら、
    「正義漢」というのが、もっともぴったりするだろう。
    そして、あえて修飾語をつけるなら、
    「不器用な」というのが、いい。
    その不器用さゆえに、
    正義感に、強いリアリティが生まれている。
    
    新藤兼人は、100歳になる今日まで、
    休みなく作品を出してきているが、
    代表作にしたいのは、やはり初期の作品群。
    ロッセニーニやデ・シーカに代表される
    イタリアン・レアリスモになぞられば、
    ジャパニーズ・リアリスムになろうか。
    
    「裸の島」
    「鬼婆」
    「どぶ」
    など、いろいろあるけれど、
    初期の傑作として、ひとつあげるとなると、
    やはり「裸の19歳」だ。
    
    
    これは、知る人ぞ知る連続射殺事件の犯人、
    永山則夫が犯行にいたる経過を描いたものである。
    新藤兼人は、脚本を書くにあたって、
    彼の生い立ちを取材し、
    そのあまりの悲惨さに絶句したといわれている。
    
    その彼の生い立ちは、
    ウィキペディアには、つぎのように記録されている。
    
    1949年6月27日、
    北海道網走市呼人(よびと)番外地に、
    8人兄弟の7番目の子(四男)として生まれる。
    父親は腕のよいリンゴの枝の剪定師だったが、
    稼ぎの大半を博打につぎ込み、家庭は崩壊状態。
    現在で言うところのネグレクトの犠牲者であった。
    
    1954年(当時5歳)に、
    母親が青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。
    兄弟すべての電車賃が出せないため、
    則夫を含む4人を網走に残したままの家出だった。
    (後に書いたノートで母は悔いている)。
    
    残された則夫を含む4人兄弟は、
    漁港で魚を拾ったりして極貧の生計を立てていたものの、
    年少の則夫は兄や姉たちから虐待を受けていた。
    しかし、1955年、
    近隣住民が福祉事務所に通報したのをきっかけに、
    4人は板柳の母親の元に引き取られた。
    
    その後、母親は行商で生計を立て、兄弟を育てた。
    中学時代に、函館と福島に家出した。
    
    1965年3月、板柳から東京に集団就職する。
    渋谷の高級果物店・西村総本店に就職した彼は、
    北海道育ちのため「東北弁コンプレックス」もなく、
    接客を要領よくこなしていた。
    やがて新規店を任される話が持ち上がるほどの信用をえた。
    
    しかし、戸籍謄本の本籍が「網走無番地」だったため、
    「網走刑務所生まれ」だと誤解されてからかわれ、
    さらに過去の窃盗を指摘される。
    やがて店内での立場が微妙になり、結局、退職。
    その後も宇都宮市、守口市、川崎市など、
    職や住所を転々とするものの、どこも長続きしなかった。
    
    それでも、新宿区の牛乳店で働きながら勉学し、
    1967年4月、明治大学附属中野高等学校の夜間部に入学。
    しかし同年7月に除籍処分を受ける。
    
    永山が新宿区の喫茶店「ヴィレッジ・ヴァンガード」で、
    早番のボーイとして働いていた時、
    ビートたけしが遅番のボーイとして働いていた。
    
    その後、熱海市で、
    定期便トラックをヒッチハイクして神戸に向かい、
    密航を企てるも失敗、横浜に戻る。
    杉並区の牛乳店で働きながら、
    1968年4月、同校に再入学し、
    クラス委員長に選ばれる。
    その後、退学し故郷の板柳町に帰る。
    そして、陸上自衛隊試験に落ちた。
    
    初めての検挙は、横須賀の米軍基地内での自販機荒らしで、
    この時は保護観察処分となっている。
    
    
    彼が起こした連続射殺事件は・・・・。
    
    横須賀市の米軍宿舎から盗んだ22口径回転式6連発拳銃で、
    1968年10月から1969年4月にかけて、
    東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺し、
    いわゆる「連続ピストル射殺事件」を引き起こす。
    永山は、1965年に起こった、
    少年ライフル魔事件の現場近くで働いていたために、
    この事件を目撃しており、
    これに刺激された犯行ではないかという見方もある。
    
    1969年4月(当時19歳10ヶ月)に、
    東京で逮捕された。
    1979年に東京地方裁判所で死刑判決。
    1981年に東京高等裁判所で無期懲役。
    1990年に最高裁判所で、
    「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、
    彼の兄弟は凶悪犯罪を犯していない」
    という理由で死刑判決が確定する。
    
    この判決では、死刑を宣告する基準(永山基準)が示され、
    のちの裁判の判定基準となった、
    
    
    
     

Posted by kimpitt at 16:40Comments(0)