2013年07月26日

ヒリヒリする秀作  キム・ギドク 「嘆きのピエタ」


    
    キム・ギドクの新作にして、超問題作・・・
    「嘆きのピエタ」を見た。

    
    「おうおう、ギドクは、ついに、
    ドストエフスキーになろうとしているのか」
    「これは、嘆きのピエタなんぞではなく、
    怒りと怨念のピエタかもしれない」

    
    これが、
    単純にして簡潔な感想である。
    

    
    まず、なぜ「超問題作」なのか。
    ギドクは、ここ3年、
    平凡でアケスケな説明をするなら、
    自己嫌悪と自信喪失にまみれて、
    山のなかへ隠遁していた。

    
    その間、成り上がってきた自己を見つめ、
    自然との対話もしてきたと推測されるが、
    その様子をフィルムに記録し続けるあたりは、
    「どこまでいってもナルシスト」である。

    
    ただし、すべての生き物がナルシストであるとするなら、
    問題は、その「程度」なのだが。

    
    で、そのナルシストの孤独を赤裸々に、
    めちゃんこ自虐的に描いた「アリラン」も、
    無責任に語るにふさわしい題材ではあるのだが、
    ここでは、「ピエタ」のことに話題を限定しよう。

    
    
    主人公は、悪徳貸金業者の取り立て社員。
    返済がままならない借り主に、暴力を加えるなどして、
    障害者に仕立て上げ、その保証金で返済をさせる、
    という仕事である。
    彼は、幼くして親に捨てられ、なんの記憶ももっていない。

    
    そこへ、母親だと名乗る女が現れ、
    彼につきまとう。

    
    彼女は、ほんとうに彼の母親なのか。
    この疑似親子は、どうなっていくのか。
    そして、不具者に仕立て上げられた男たちの運命は?

    
    ここで物語られることの軸になっているのは、
    「人間にとって金とはなにか」と、
    「親子の愛とはなにか」である。

    
    なかには、
    わが子を育てる金欲しさから、
    すすんで両手を切断して不具者になる青年なども登場する。

    
    
    これまでのギドクの作品は、
    登場人物もさほど多くはなく、
    その愛や孤独や貧困、そして怒りや恨みなどが描かれていくのだが、
    ドラマの構成もテーマも、
    じつにシンプルだった。

    
    ところが、この「嘆きのピエタ」は、
    主役は、息子と母親の2人となってはいるが、
    脇役で出てくる不具者たちなどが、
    さまざまな過酷な運命を背負っていることから、
    テーマも構成も、
    かなり重層的に組み立てられている。

    
    しかし、キム・ギドクの描きかたは、
    いわば表面を撫でるようにさらりとした軽さをもっていて、
    この素材の重さと表現の軽さのミスマッチが、
    新しさをもってはいるが、
    物語に重厚さを与え損なってしまい、
    そこからは、
    ドストエフスキーの小説のような深くて重い、
    粘着質の感動は、生まれてはこない。

    
    
    現代、つまり21世紀の孤独や愛や貧困や怨念は、
    このようにして語るしかないものなのだろうか。
    

    そんななかで孤高の道を歩む人、
    今年、ノーベル文学賞を受賞した莫言の作品は、
    だからこそ燦然と光っているのかもしれないが。

    
    この「嘆きのピエタ」は、
    ヴエネチア国際映画祭で、
    最高賞となる「金獅子賞」を獲得している。
    これについて監督本人は、
    「世界中の多くの国が抱えている資本主義の犠牲、
    つまり経済的理由で人が傷つけられているという現実に対する
    この映画のメッセージを、
    審査員が読み取ってくれたのだと思いました」
    と語っている。

    
    大切にすべきことは、
    作品の技術的完成度の高さではなく、
    映画作家が、その作品によって、
    世の中になにを問いただしているか、なのである。

    
    その意味から、
    現代の寓話、または神話の体裁をした「嘆きのピエタ」は、
    ここ数年に登場した作品のなかで、
    もっともヒリヒリする秀作だと言わずにはいられない。
    
    
    
    
  

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2013年07月22日

静岡ロケ作品  ドキュメンタリー 「ちいさな、あかり」


 
    この映画「ちいさな、あかり」は、
    静岡市JR駅前から、「横沢行き」のバスに乗って、約1時間、
    「大沢入り口」で下車し、
    そこから徒歩約5分の山の中にある、
    小さな小さな集落でロケしたドキュメンタリーである。
    

    もともとバスは、
    山を越えて井川まで行っていたのだが、
    2年前の豪雨の土砂崩れで道路ががいまだに不通のため、
    峠の手前の「横沢」で折り返し運転となっている。

    
    
    そこには、23世帯が住んでいて、
    そのうちの大半は、「内野」という姓である。
    もちろんそのなかには親戚も存在するけれど、
    全世帯が親戚ではないらしい。

    
    もの好きにもぼくは、
    この72分のドキュメンタリーを見るまえに、
    大沢部落を訪問した。

    
    ここ大沢では、2013年の6月から、月2回日曜日に、
    「縁側カフェ」とう催しをやっているというので、
    百聞は一見に如かず・・・カメラの目ではなく、
    自分の肉眼で、この大沢部落を見たかったのである。

    
    「縁側カフェ」というのは、
    特別な場所で、特別なことをするわけではなく、
    それぞれの民家(大半は農家)が、
    ひとり300円のお茶代をもらい、
    その家で作ったもの、
    たとえば、柏餅なり、手づくりの饅頭なり、
    なにかお茶菓子を提供する、というもの。

    
    ぼくたちが寄った家では、
    芋の蒸しパンと、漬物を出してくれ、
    お土産として、柏餅をくれた。
    (これで300円では、完全に赤字だろう・笑い)
    

    その家のオバサンと、話に花が咲いた。
    というのは、彼女は、川根本町千頭の出身で、
    千頭には、ぼくの遠い親戚の人がいたからだ。
  
  
    オバサンは、
    中学を卒業すると、
    なにも説明などうけないまま、
    親に連れられて、大沢の内野家へ嫁に来て、
    子どもを産まされ、二人の子の母親になったが、
    姑からあれこれ悪口を言いふらされ、
    二人の子の手をひいて泣きながら山を越え、
    川根の実家に帰っていった・・・・・
    といった身の上話を、
    初対面のぼくに、
    オバサンは笑いながら話してくれるのだった。

    
    
    さて、と。
    大沢地区訪問の話はこのくらいにして、
    映画「ちいさな、あかり」

    
    これは、自然体の、初々しく素朴な映像詩で、
    上映時間72分だから、
    いわば長めの短篇といっていい。

    
    なぜ映像詩なのかというと、
    大沢地区を全国に紹介しようという観光目的があるわけではなく、
    この地区の場所とか訪問ルートとかは、
    ほとんど紹介していない。

    
    昭和時代をそのままひきずっているかのように、
    きわめて素朴な自然の風景の四季折々を、
    鮮やかに描いているわけでもない。

    
    また、人間は、
    高齢者と子どもが断片的に登場するのみで、
    どんな人たちが、そこで、
    なにをして暮らしているかは、よくはわからない。
    

    特定の問題意識をもって、
    山村の人と自然を意思的に映像化し、
    なにかを主張しているわけでもない。

    
    しかし、
    チラシに書かれていたキャッチ、
    「毎日に、そっとふれる」
    が示すように、
    やさしい時の流れが、
    のびやかな暮らしの営みが、
    ほんとうに純粋なまま、
    観客のところへ忍び寄ってくるのだ。

    
    
    わずか67分のドキュメンタリー作品。
    まったくけれん味のない、
    とても素朴な映像詩。
    その、じつに控えめな叙情性が、
    あなたを、やさしく抱きしめるのである。
    

    そして、もし、この「ちいさな、あかり」が、
    実用的な説明にあふれたドキュメンタリーになっていたら、
    観光協会好みの凡作に堕していたに違いない。
    

    
    
     

Posted by kimpitt at 17:48Comments(0)