2014年03月23日
ハネケの「愛、アムール」 おぬし 鈍ってしまったのか

いまごろ、「愛、アムール」を見たというのも、
ひとこと、説明が必要でしょう。
じつは、ぼく、
ミヒャエル・ハネケは、カンヌで注目される以前から、
大好きな映画作家のひとりでした。
「ベニーズ・ビデオ」 1992年
「ファニーゲーム」 1997年
「ピアニスト」 2001年
とくに強烈な印象をもたされたのは、「ファニーゲーム」!
これは、カンヌでは無冠に終わりましたが、
パルムドールを取った「白いリボン」「愛、アムール」よりも、
ぼくは、
「ファニーゲーム」を高く評価しているのです。
ですから、
ミヒャエル・ハネケに対するカンヌの評価は、
10年遅れていると確信?しています。
なので、
「白いリボン」以降については、
かなり冷やかな視線をおくり、
「愛、アムール」は、見る気になれませんでした。
なぜかというと、
もうひとつ理由かあります。
ぼくは、
2年前から主催者(静岡市女性会館)に頼まれて、
「男性介護者交流会」のファシリテーターみたいな役を、
してたからです。
「妻の首を締めて、自分も自殺するつもりでいた」
なんて実話を、聞かされ続けてきたため、
いくら勉強になるとはいえ、
「もう、辛い話は、カンベンしてくれよ」と、ひそかに、
口に出さねど、目に涙・・・していたのです。
「デイケアでお世話になっている施設で、
妻があまりに言うことをきかないので、
ついカッとして手が出て、彼女を張り倒してしまい、
5秒もたたないうちに己の非に気づいて自己嫌悪に陥り、
施設職員もいる場で、号泣してしまった」
そんな告白に耳を傾ける傾聴の仕事?なんて、
それを平然とこなせるほど、
ぼくは強い人間じゃないのです。
そんなわけで、
WOWOWで放映された「愛、アムール」は、
録画してDVDに落としてはあるものの、
まったく見る気にはなれずにいたのですが、
静岡のミニシアター(シネ・ギャラリー)で上映され、
招待券をいただいてしまったので、
ついに重い腰をあげて、
むかし愛していたミヒャエル・ハネケに、
会いに出かけました。
で、その結果は?
高齢者による「老々介護」の問題をよくとらえていて、
とくに、介護で孤立する男性がみずから社会と断絶し、
社会もまた彼をほうり捨てていく姿を、
抑制のきいた手法で描きあげたところは、
さすがハネケ!・・・だと感動しました。
しかし、
ものすごく、ものすごく気に入らないところも、
ありました。
それは、主役となる高齢者夫妻の状況設定です。
この2人は、ともに音楽家であり、
グランドピアノもある5LDK以上の、
おそらく家賃は月30万円以上もするであろう、
豪華なマンションで生活しているのです。
パリと日本の都市では、
住環境のレベルがまったく違う・・・
ということを頭においたとしても、
この夫妻が、
西欧の大都市に住む高齢者の平均像であるはずもなく、
そうであるなら、
この高齢者夫妻の介護と死の問題は、
もっと普遍的な経済的課題を背負わせることで、
「生と死」のさらなる深淵に、
肉薄していけたであろうに、
そういう設定にはしてなかった。
これは、ミヒャエル・ハネケが、
「ファニーゲーム」などで示した非情さとは、
ほど遠いものであり、
「おぬし、鈍ってしまったじゃないか」
と叫ぶのを止めることができなかったのです。
たとえヨーロッパといえども、
2LDK以下の住まいで、
シューベルトの即興曲を聴くこともなく、
寝たきりの妻の首を締めたい気持ちに必死の抵抗を試みつつ、
過酷な日々を生きる夫が、いないはずはないのです。
もし、
ボスニア・ヘルツェゴビナ映画「鉄くず拾いの物語」の
ダニス・ダノヴィッチだったら、
けっしてこんな設定の物語にはしなかっただろうと、
ひそかに、ぼくは思ったのでした。
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22:35
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2014年03月19日
ソクーロフの傑作 「精神の声」

ぼくが、ぼくの、
「オール・タイム・ベストワン」
に、決めている作品はなにか。
タルコフスキーの「サクリファィス」「ストーカー」を、
僅差で抑えたのが、
アレクサンドル・ソクーロフの「精神の声」だ。
4部構成・340分のドキュメンタリー。
英語の題名は、「SPIRITUAL VOICES」。
1995年に、ぼくは、この作品を、
渋谷のユーロスペースで、
一日がかりで見た。
そのとき、
ソクーロフも会場にいた。
そして、後日、
パンドラから発売されたビデオ(全4巻)を購入。
やがて日々は流れ、
2004年に、
FACETS(アメリカ)から、
DVDが発売された。
そのときは、
日本語字幕入りのビデオがあるから・・・と、
DVDの購入は見あわせていたのだが。。。。。。。
その後急速にメディア事情は変転し、
ビデオは、20世紀の化石化(遺産)していった。
「精神の声」は、やはり、
DVDで持っていないと、ヤバイ!
遅まきながらそう判断するに至って、
ネットで探したのだけれど、
アマゾンにもどこにも、もはや在庫はなかった。
中古の売りもなかった。
そして日々は流れ、
2014年の春3月のこと。
ふと思い立って、アマゾンUSAで検索したら、
ジャーン!
新品・中古ともに、在庫していたのだった。
新品は、300ドル。
そして、中古は、最安値が、39・99ドル。
幸運なことに、その39・99ドル品は、
INTERNATIONALに、購入OK。
(業者によっては、アメリカ国内オンリーという売り物もある)
そして、幸運×2なことに、その39・99ドル品は、
「LIKE NEW」。
日本語にすると、「新品同様」となっていたのである。
迷うことなく、即オーダー。
そしていま、
「精神の声」のDVDは、手元にある。
送料が、14・95ドルかかったため、
支払い総額は、「54・94ドル」
いま、為替レートは、100円すれすれなので、
手数料を加えても、6000円くらいだろうか。
2枚組のDVDとしては、
間違いなく、安い。
字幕は、
英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語!
そして、リージョン・フリー。
送り主(売り主)は、
「HARKNESS SPECIALTIES」
マサチューセッツ州のAMHERST市。
知らないアメリカの町から、届いた国際郵便。
DVDには、ボーナスとして、
ソクーロフの短編「兵士の夢」(11分)が、
ついていた。
めでたし、めでたし。
Posted by kimpitt at
21:09
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2014年03月14日
童貞の道程に関する リアリズム

山下敦弘の初期の作品・・・
「リアリズムの宿」を見た。
なんで? いまごろ?
・・・という素朴な疑問に対しては、
説得力のある回答はできない。
しいて言えば、
「リアリズムの宿」という題名が、
なんともヘンテコリンで、気になっていたから・・・
かもしれない。
で、見てわかったことなのだが、
これは、
つげ義春の原作のマンガを映画化したものだった。
うん、納得。
「リアリズムの宿」というのは、
つげ義春の感覚だ。
ふとしたもののはずみで、
冬の山陰の海岸を、
あてどもなく短い旅をすることになった、
20代後半とおぼしき、冴えない青年ふたり。
ひとりは、
女と6年間の同棲経験があり、
もうひとりは、まだ、童貞である。
ひとりが、もうひとりに、
なにげなく質問する。
「○○さんは、どうして童貞なんですか」
俺は、もう6年の性的生活を経験しているのに、
年上のくせしてなんで童貞なのか?
・・・というような、
陰湿な質問ではない。
この世には、
高校生くらいで初体験をする男が多いなかで、
なんでその年齢までセックスなしで生きてこられたのか?
という、きわめて単純素朴な疑問のようだった。
で、童貞の先輩も、
「なんでって言われてもねえ・・・・・」
みたいな要領をえない返事で、
ふたりにとっては、
童貞であるかないかなど、
さほど大事なことではなかったらしい。
そりゃ、そうだ。
ひとくちに童貞と言っても、ピンキリ。
童貞ではないと言っても、
これまたピンキリなんだから。
で、肝心の作品なのだけれど、
ほとんど、
大阪芸術大学卒業記念的なテイストで、
それ以上でもなければ、それ以下でもない。
褒めモードで言えば、
「いかにも若者らしい感性で破綻なくまとめられた・・・」だし、
貶しモードで言うなら、
「もうちっと強い個性をもっていないと、この先がねえ・・・」。
事実、昨年の山下の話題作「マイ・バック・ページ」は、
そつなく出来てはいるものの、
なんか全体が優等生的で、ね。
そこへいくと、
ほぼ同じ世代かもしれない熊切和嘉は、
「鬼畜大宴会」というゲテもの色もある作品で出発し、
最新作のひとつに、「海炭市叙景」という秀作。
そういうことなんだよね。
そういうこと。
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20:23
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2014年03月09日
「それでも夜は明ける」 ブラピは すこし厚かましいけど ま いいか

スティーヴ・マクィーン監督作品、
「それでも夜は明ける」は、
2014年のアカデミー賞最優秀作品賞を獲得した作品で、
そのことは、
アメリカの、そしてハリウッドの良心と正義感が、
いまも健在であることを証明した、といってもいいだろう。
また、この映画の制作に資金を出して支援した、
ブラッド・ピットは、このほかにも、
いくつか優れた映画の制作を担当し、
またしても、男をあげている。
ただし、
「それでも夜は明ける」に登場する白人のなかで、
一番いい役をやっているから、
厚かましさもピカイチである。
1800年代の後半、
アメリカでは、
海外からの「奴隷輸入」は禁止されてはいたが、
奴隷制度そのものは残っていたため、
商品として奴隷は、「品不足」?状態になっていた。
そこで白人たちは、なにをしたのか。
北部にいた自由な身分の黒人を拉致して、
奴隷として南部に売りつけていたのだ。
映画「それでも夜は明ける」は、
その拉致されて奴隷として12年生きた男の自伝を、
映画化したもので、ブラッド・ピットは、
「もし、あと1本しか映画が作れなくなったとしたら、
作るべきはこの作品だ」と宣言したという。
ほとんど家畜同然の扱いで、労働に酷使される奴隷の悲劇は、
ぼくたちが、これまでに知ってきたものとほぼ同じではあるけれど、
冷酷極まりない白人たちの振る舞いは、
見ていて唖然とする。
「アメリカは、こういう過去を背負った国なのだ・・・」と。
しかし、21世紀初頭の現在のアメリカに、
なにも問題がないのかといえば、
そうではないだろう。
岩波新書の「貧困大国アメリカ」がレポートしているように、
貪欲な世界資本主義グローバリズムの生贄となり、
底辺からはい上がることができない新しい奴隷たちが、
明けない夜を過ごしているのではないか。
また、日本とて、
グローバリズムがもたらした貧困と、無縁では、けっしてない。
二人で働いても、
年収200万円確保がラクではない若いカップルに、
いったいどういう未来を夢みる自由があるのか。
映画評論家の中条省平は、
「それでも夜は明ける」の批評を、
こういう言葉で結んでいる。
「民主主義国家アメリカの歴史的恥部である奴隷制度を、
これほど生生しく、苦痛に満ちて描きだした映画は稀であろう。
人間の尊厳を醜悪に踏みにじる愚行を前にして、
観客は怒りとともに、こうした不正義を地上から駆逐したいと、
念ずるはずだ。」
いまの地球上には、あちこちに、
「明けない夜」が、あふれている。
Posted by kimpitt at
15:22
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