2011年12月24日
ぼくたちには 精神の共同便所が 必要である

東電が、「20%値上げ」を表明した。
そして、記者会見では、
「これは、電力会社の義務であり、権利でもある」と。
おうおう、そう来たか。
安定的に電力を供給するのは、義務だろう。
そして、それを死守するためには、
必要な料金を設定する権利かある・・・
ということなのだろう。
もちろん、決定する権限は政府のほうにあるから、
すんなり値上げにはならないと思うけれど、
いくら正当な理論とはいえ、
それを堂々も公言する神経には、
呆れるほかない。
原発事故で、
なんの罪も責任もない無名の市民・農民たちの生活を、
あれほどまでに破壊しておきながら、
この発言!
やはり、あの人たちには、
人民の苦しみや悲しみに共感する能力は、
決定的に欠けているとしか思えない。
詩人の吉野 弘は、
「祝婚歌」という詩のなかで、
「正しいことを言うこととは、
相手を傷つけることだと知っておきたい」
と書いている。
国会の場ならともかく、
世間に対してモノを言うときには、
新聞記者の後ろに、
たくさんの人民・愚民がいることを、
想像することができないのは、
基本的に、人間失格だろう。
「犯すまえに、犯しますとは、言わない」
という歴史に残る名言(失言)も、
同類だろう。
その日、たまたま、朝日新聞の「論壇時評」では、
作家の高橋源一郎が、
新進気鋭の論客・東 浩紀が発表した、
「一般意志2・0」という論文に、
深い感銘を受けた・・・として、
東 浩紀の、つぎのような一文を紹介している。
「人間は論理で世界全体を捉えられるほど賢くはない。
論理こそが共同体を閉じるときがある。
だからわたしたちは、
その外部を捉える別の原理を必要としている。
その探究の果てにわたしたちが辿り着いたのは、
熟議が閉じる島宇宙の外部に〔哀れみの海〕が拡がり、
あちこちで発火している、
そのようなモデルである。」
さも難しげな文脈にはなっているけれど、
ようするに東 浩紀は、
論理・言語・熟議を最大の武器とする、
政治システムやそこに群がる自称知識人に、
柔らかに「NO」を突きつけている、と、
読み取ることができる。
人間は、言葉によって共感と、連帯し、反目もする。
しかし、そこでは感情とか無意識といったものは、
蔑まれ、排除されていく。
けれども人間を支配しているのは、
むしろ言語や論理ではないということ。
2チャンネルを代表とするインターネットの言語世界は、
混沌とし、混迷を極めているかもしれないが、
それは、
論理を武器とする社会システムから
除け者にされてしまった人民の、
精神の共同便所になっている、ということだろう。
排尿・排便なしには、
人は生きていくことができないのだ。
義務と権利を公言した人は、
おそらく排尿・排便はしていないかもしれないけれど、
ね。
Posted by kimpitt at
16:42
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