2011年12月03日
恋愛の定義は あまりに古典的だ

賛成堂という書店は、ない。
三省堂という出版社なら、ある。
ここは、書店も出している。
そして、三省堂で注目されているのは、
国語辞典だ。
ふつう、辞書に書かれている言葉の定義は、
味もそっけもないものだが、
三省堂の「新明解国語辞典」は、
ひと味違うユニークな解説をしていて、
読み物としても楽しめるものになっている。
たとえば、「恋愛」については、
岩波の国語辞典だと、
「男女間の恋したう愛情。いじらしく思う。愛すべく思う」
と書いてあるのだが。
「新明解国語辞典」では、
「特定の異性に特別な愛情をいだき、高揚した気分で、
二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いながら、
出来るとなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、
常にはかなえられないで、
やるせない思いに駆られたり、
まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと」
このように、
岩波と三省堂の定義を比較すると、
両者には雲泥の差がある。
しかし、きちんと読んでみると、
岩波の「いじらしく思う」には、違和感がある。
まったく的がはずれているわけではないけれど、
いじらしく思うのは、男のほうが多く、
女が男をいじらしく思うのは、
年上妻くらいなものではないか。
また、三省堂のほうで、
「出来るとなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、
常にはかなえられないで、
やるせない思いに駆られたり、
まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと」
も、あまりに固定的なセンスだと思う。
ようするに、これらの辞書の定義を執筆したのは、
かなり年配の、古典的センスの持ち主であることが、
歴然としている。
いまどきの恋愛だと、
「常にはかなえられない」ではなく、
「いとも簡単にかなえられて」しまうことがある。
とくに、
「まれにかなえられて」というのは、
あまりに時代錯誤的だろう。
それと両方に共通しているのは、
恋愛を、異性間に限定していること。
それこそ、
「まれに同性間でも恋愛感情は発生する」
としておくべきではないか。
それとも、出版社の人たちは、
同性間の愛情は、すべて友情だと思っているのかな。
うーん、わかんないよ。
Posted by kimpitt at
15:03
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