2012年05月28日
不器用で貧しく 孤独な画家の物語 「ピロスマニ」
「赤恥カンヌウィーク」の2日目目は、
岩波ホールの原田健秀さんがゲストで、
「ピロスマニ」を上映した。
お馬鹿インタビュアーの女は、
第1日目ほどひどくはなかった。
むしろ、誰かに聴いてほしいという話し手の思いが、
聞き手の稚拙さをカバーして、
原田さんの「ピロスマニ」に傾ける熱意が、
ひたひたと伝わってきた。
ユーロスペースの北条さんもそうだったが、
原田さんも、その、いかにも誠実そうな人柄が、
観客を魅了した(はずである)。
さて、ピロスマニに関しては、
「バラの花のエピソード」が、歌にまでなっている。
ピロスマニは、1894年に、
彼の町を訪れたフランス人女優マルガリータに恋心を抱き、
彼女の泊まるホテルの前の広場を花で埋め尽くしたという。
加藤登紀子の「百万本のバラ」に歌われる貧しい絵描きは、
彼をモデルとしたものと言われている。
貧しく孤独で、
生きかたも不器用そのものだったピロスマニ。
原田さんは、ピロスマニに魅せられ、
新婚旅行はグルジア。
そして、「日本グルジア友の会」まで立ち上げてしまった人で、
2011年には、
「放浪の画家 ニコ・ピロスマニ」(冨山房インターナショナル)
という本も出している。
さて、ピロスマニ。
彼は、1862年にグルジアで生まれ、
本名は、ニコ・ピロスマナシヴィリ。
放浪癖があり、その生涯には不明なことが多い。
グルジア東部のMirzaani(ミルザーニ)の村で生まれ、
後にトビリシに出て、グルジア鉄道で働いたり、
自分の商店を持ったりしたが、
体が弱いうえに人付き合いがうまくなかったため、
長続きしなかった。
その後、独学で習得した絵を描くことに専念するようになる。
ピロスマニは、
プリミティヴィズム(原始主義)、
あるいは素朴派(ナイーブ・アート)の画家に分類されており、
彼の絵の多くは、
荒野にたたずむ動物たちや、
食卓を囲むグルジアの人々を描いたものである。
彼はグルジアを流浪しながら絵を描いてその日暮らしを続け、
一時は、ロシア美術界から注目されるようになったが、
そのプリミティヴな画風ゆえに、
新聞などから幼稚な絵だという非難を浴びてしまった。
そして貧困と失意のなか、
1918年に、衰弱死した。
いまでは、グルジアの国民的画家として愛されるようになり、
ソ連では、
1971年と1986年に、その生涯が映画化されている。
Posted by kimpitt at 16:46│Comments(0)