2011年12月09日
僭越ではありますが それは 読書ではありません
三省堂の「新明解国語辞典」のことについては、
このまえも書いたのですが、
もうひとつ、紹介します。
それは、「読書」の定義です。
「研究調査や受験勉強の時などと違って、ひととき現実の世界を離れ
て精神を未知の世界に遊ばせたり、人生観を確固不動のものたらしめ
たりするために、時間の拘束を受けることなく本を読むこと。寝ころ
んで漫画本を見たり、電車の中で週刊誌を読んだりすることは勝義の
読書には含まれない」
おおおおおおおおおおおおおお。
言ってくれたぜ、オトッツァン!
ここで、「勝義」とあるのは、
「本来の意味」ということで、
かなり厳しい条件をつけているところに、
低俗文化?に対する毅然として姿勢が露呈しているので、
ひそかに拍手したい。
でも、異論がないわけではない。
「人生観を確固不動のものたらしめたりする」ことは、
ありうる。
しかし、すべての読書が、そういう効果をもたらすとは思えない。
読んだ本によっては、
人生観が揺らいで不安が増してしまうことだって、ある。
そしてそれは、読むまえからわかっているとは、限らない。
また、
「時間の拘束を受けることなく」というのも、
あまりに厳しいというか、贅沢で、
なんか浮世離れした退職老人による定義みたいな気が、
しないでもない。
いまの多忙な現代人は、
読書だけでなく、ほとんどの行為が、
時間の拘束のなかにある。
そんななかで寸暇を惜しんで本を読むのは、
読書ではないのか。
でもね。
こういう毒のある辞書というのは、貴重だ。
「新明解国語辞典」は、
善意の毒にまみれた辞書だ。
ときに、独善的てあったりはするけれど、ね。
Posted by kimpitt at 16:01│Comments(0)